結ばれたコード

結ばれたコード

第1章 綻びゆく日常と、制度の光

令和元年、73歳の二人。透析と認知症の始まり。介護保険申請から「要介護2」の認定、福祉用具(2モーターベッド等)の導入まで、社会の助けを借りながらも必死に踏みとどまる日々。

第2章 削られる心と見えない壁

令和二年。コロナ禍の閉塞感の中で進行する認知症。用具は身体を支えても、夜間の徘徊や失禁、同じ質問の繰り返しが夫の精神を磨り潰していく。娘との距離感と、「自分がやらねば」という孤独な責任感。

第3章 断崖の宣告

令和三年一月。夫に膵臓がんの疑いが浮上。さらに二月、妻が自宅で転倒し「要介護4」相当まで状態が悪化。「自分が入院すれば、この人は生きていけない」という絶望的な確信。

第4章 春の雪、三月三日の決断

雛祭りの夜。練炭での心中計画。苦しむ妻を前にパニックになり、手近にあった延長コードを手に取るまでの数分間を、静謐かつ凄惨に描写。

第5章 法廷に響く「献身」の代償

「社会の中で更生させるのが適切」という判決。5年間の執行猶予を背負い、娘の支えを受けながら、妻のいない世界で生きていく残された時間。

終章 終わらない罰、消えない感触

空っぽの家。逮捕・勾留期間を経て手に入れた「睡眠」への罪悪感と、娘に十字架を背負わせてしまった絶望。手に残るコードの感触を抱えながら、終わりの見えない空虚な日常を生きていく真の罰。


「主文。被告人を懲役三年に処する」

裁判長の低く落ち着いた声が、静まり返った法廷に響き渡った。七十六歳になったばかりの彼の背中は、手錠を外された細い手首とともに、頼りなく丸まっている。

「この裁判が確定した日から、五年間その刑の執行を猶予する」

その言葉を聞いても、彼の心には安堵よりも深い空洞が広がっていた。傍聴席の最前列では、長女がハンカチで顔を覆い、声を殺して肩を震わせている。

なぜ、自分は最も愛する人の首に手をかけてしまったのか。

あの令和三年、三月三日の夜。練炭の煙とともに二人で消えていくはずだった命が、今こうして法廷の証言台の前に立ち、微かに、しかし確かに息をしている。妻だけを暗闇に追いやり、自分だけが生き残ってしまった現実は、彼にとってどんな刑罰よりも重い枷のように思えた。

彼はゆっくりと目を閉じ、妻の柔らかな笑顔がまだそこにあった、あの穏やかな日々に思いを馳せた。

第1章 綻びゆく日常と、制度の光

令和元年、初夏。千葉県ののどかな風景の中を走る軽自動車の助手席で、妻は静かに目を閉じていた。

「今日も疲れちゃったね。帰ったら、温かいお茶を淹れよう」

ハンドルを握る彼が優しく声をかけても、妻は小さく頷くだけだった。週に三回の人工透析。糖尿病性腎症を患う妻にとって、命をつなぐための通院は、同時に体力を容赦なく奪っていく過酷な時間でもあった。七十三歳という年齢を迎え、ただでさえ細くなった妻の腕には、注射針の痕が痛々しく残っている。

同年六月のある日。彼が庭の草むしりから戻ると、台所で妻が立ち尽くしていた。

「どうしたんだい?」

声をかけると、妻は不安げな瞳で彼を見つめ返した。

「お父さん、お鍋の火のつけ方が、わからなくなっちゃった……」

何十年も使い続けてきたガスコンロの前で、妻は震える手を見つめていた。それが、認知症の始まりだった。

病はゆっくりと、しかし確実に妻の記憶と日常の能力を奪っていった。さらに、長年の透析治療は確実に彼女の身体をも蝕んでいた。足腰の筋肉がすっかり衰え、床に敷いた布団から一人で起き上がることや、自力で立ち上がることが困難になり始めていたのだ。時には立ち眩みで畳にへたり込んでしまい、彼が抱き起さなければならない日も増えた。

認知症の進行と、身体的な介助の増加。このままでは共倒れになる――

危機感を覚えた彼は、娘に相談した上で市役所の窓口へ足を運び、介護保険の『要介護認定』を申請した。

数日後、自宅には市の認定調査員が訪れた。調査員は妻に日付や季節を尋ねるだけでなく、実際にその場で立ち上がったり歩いたりする動作を細かく確認し、主治医の意見書と合わせて審査の手続きを進めていった。

一ヶ月後、郵送されてきた結果通知書には『要介護2』と印字されていた。認知機能の低下による生活の混乱に加え、起き上がりや立ち上がりに一部介助が必要な状態であると公的に認められたのだ。

この結果を受けて、自宅には担当のケアマネジャーと共に、作業着姿の『福祉用具専門相談員』が訪れた。彼らはただ分厚いカタログを開くだけでなく、メジャーを取り出して寝室の広さや浴室の段差を丁寧に測り、妻の身体状況や家の動線に合った用具を具体的に提案してくれた。

「お母さん、布団から起きるのは大変でしょう。少しこのベッドに寝てみましょうか」

数日後、搬入されたのは『2モーター式の特殊寝台(介護用ベッド)』だった。原則として要介護2以上でなければ介護保険でレンタルできない代物だが、妻の状態はその基準を満たしていた。

まずは一週間の「お試し期間」を利用し、妻がモーター音を怖がらず、手元のスイッチで背上げができるかを確認してから、正式に月々一割負担でのレンタル契約を結んだ。  

さらに、寝室からトイレまでの動線に合わせて床に置くだけで安定する『据置型手すり』をレンタルで配置し、滑りやすい浴室には、特定福祉用具購入制度を利用して高さ調整ができる『シャワーチェア』を揃えた。

立ち上がりを助ける手すりの確かな感触や、専門員たちが親身になって調整してくれたシャワーチェア。それらの便利な用具は、確実に彼の肉体的な負担を減らしてくれた。

「日本の制度も捨てたもんじゃない」。そう安堵の息を漏らした夜もあった。

しかし、福祉用具が支えてくれるのは、あくまで「身体」だけだった。

昨日の晩ごはんのメニューを忘れることから始まり、やがて季節の感覚が薄れ、時には夫である自分を「見知らぬ人」のように警戒する妻。どれほど優れた電動ベッドがあっても、夜中に起き出して家の中を徘徊する妻の心を引き留めることはできない。

掃除、洗濯、食事の準備に加えて、片時も目を離せない緊張感。七十代の体には決して楽な作業ではなかった。睡眠不足で頭がぼんやりする日が増え、鏡に映る自分の顔には、日に日に疲労の色が濃くなっていた。

それでも、彼は決して妻を手放そうとはしなかった。  

縁側で二人並んで座り、庭に咲く季節の花を眺めている時だけは、妻は穏やかな笑顔を取り戻した。

その笑顔を見るたびに、彼は「この先何があっても、自分がこの人を最期まで看取るのだ」と心に誓っていた。

自分たちの平穏な日々が、これ以上崩れることはない。そう信じて疑わなかった。だが、令和3年という残酷な年が、彼自身の体に潜む「病の影」とともに足音を立てて近づいていることを、この時の彼はまだ知る由もなかった。

​第2章 削られる心と、見えない壁

​令和二年。世界は一変した。 

新型コロナウイルスの流行により、テレビの向こうでは連日「外出自粛」が叫ばれていた。

しかし、彼と妻が住む古い平屋の中では、それ以前からすでに、出口のない密室のような生活が始まっていた。​

「お父さん。ここはどこの家かしら。私、早く自分の家に帰りたいの」​ 

夜中の二時。介護用ベッドから起き上がった妻が、彼を揺り起こした。寝室からトイレまでの動線には『据置型手すり』が置かれている。

要介護2の認定を受けた妻は、足腰が弱りながらも、その手すりを伝えばなんとか自力で歩くことができた。しかし、その「歩ける」という事実が、皮肉にも彼から熟睡を奪っていた。 

一日に何度も繰り返される同じ質問。彼はそのたびに布団から這い出し、手すりを伝って歩く妻の背中を支えながら、家の中を歩いて彼女を安心させようと努めた。​ 

精神の摩耗は、肉体の疲労よりも深く静かに進んでいった。​ 

コロナ禍の波は、細いつながりだった介護のセーフティネットさえも遠ざけた。

デイサービス(通所介護)の利用は「施設で感染して透析に通えなくなったら命に関わる」という恐怖から、自ら休止せざるを得なかった。 

頼みの綱であるケアマネジャーの月一回の訪問(モニタリング)も、感染防止の特例措置により、電話での安否確認に切り替わってしまった。

『お父さん、お変わりないですか? ご無理されていませんか?』 

受話器の向こうの気遣う声に、彼は「ええ、なんとかやっていますよ」と強がるしかなかった。

本当は限界などとうに超えているのに、社会の非常事態の中で「自分たちだけが助けを求めてはいけない」と思い込んでしまったのだ。​

ある朝、彼は目を覚まして愕然とした。 

寝室から廊下にかけて、異様な臭いが漂っていた。トイレの場所がわからなくなった妻が、廊下の隅で失禁してしまっていたのだ。

それだけではない。パニックになったのか、妻は濡れたパジャマや下着を脱ぎ捨て、あろうことか、それを居間のタンスの引き出しの奥に隠していた。 

尿の染み込んだ衣類と、汚れてしまった大切な家族の写真や書類。それらを見つめながら、彼は言葉を失った。

妻の自尊心を傷つけないよう、彼は何も言わずに黙々と拭き掃除を始めた。雑巾を絞る彼の手は、小刻みに震えていた。​

そんな折、近所に住む長女が様子を見に来た。​

「お父さん、少し痩せたんじゃない? 大丈夫? 私に手伝えることがあったら言ってね」​ 

マスク越しでもわかる娘の心配そうな顔。しかし、彼は笑って首を振った。「大丈夫だ。お前は自分の家庭の感染対策をしっかりしなさい。こっちは手すりもあるし、なんとかなっているから」​

それは、親としての意地であり、誇りでもあった。そして何より、かつて凛としていた母親が、排泄の失敗を隠すようになってしまったという無残な現実を、娘にだけは知られたくないという悲しい執念だった。

彼は娘に、本当の窮状を伝えなかった。夜中に何度も起こされること、透析の送迎でヘトヘトになった体に、タンスの中の汚物処理が追い打ちをかけていること。それらをすべて胸にしまい込み、コロナという見えない壁の内側で、彼は一人、妻のすべてを背負い続けた。​

令和二年の終わり。庭の木々が葉を落とす頃には、彼の心は乾いた冬の土のように、細かくひび割れていた。

もはや福祉用具や制度という「道具」だけでは繋ぎ止めることができない領域に達していた。それでも彼は、自分が倒れるまでは、自分が守り抜くと自分に言い聞かせ続けた。​ 

その彼を、さらなる絶望が待ち受けていた。 

令和三年一月。それは、彼自身の体に訪れた、冷酷な宣告から始まった。

第3章 断崖の宣告

令和三年、一月。  

凍てつくような寒さの中、彼は台所のシンクを掴んで、せり上がってくる吐き気と闘っていた。背中を突き刺すような鋭い痛みは、もはや湿布や気合でごまかせるものではなくなっていた。  

病院で医師から「膵臓がんの疑い」を告げられたとき、彼は恐怖よりも先に、ある種の「納得」を感じていた。 (ああ、私の体も、もう彼女を支えることを拒んでいるのだな)と。

しかし、入院は断った。彼が家にいなければ、妻は冬の寒さの中で、誰にも気づかれず枯れ果ててしまうだろう。  

彼は医師の忠告を背に、痛み止めをラムネのように噛み砕きながら、再び介護の戦場へと戻っていった。

二月のある夕暮れ。

かつては妻が好きだった肉じゃがを、彼は時間をかけて作った。認知症が進んだ妻のために、野菜は形がなくなるほど柔らかく煮込んだ。

「さあ、お母さん。美味しいのができたよ」  

だが、ベッドの上に座った妻は、差し出されたスプーンを無表情に振り払った。

「いらない! 毒が入ってるんでしょ!」  

鋭い叫び声。かつては「お父さんの料理が一番」と微笑んでいた妻の口から出る言葉に、彼の心は音を立てて削られた。汚れた床を掃除しながら、彼はふと窓に映る二人を見た。  

がんで痩せこけた自分と、虚空を睨む妻。そこには、共に歩んできた五十年の歳月の名残さえ、どこにも見当たらなかった。

決定的な瞬間は、その数日後に訪れた。  

深夜、トイレに行こうとした妻が、手すりを掴み損ねて転倒したのだ。

「ドスン」という、生々しい肉と骨が畳を叩く音。  彼が駆け寄ったとき、妻は腰をさすりながら、ただ怯えた目で彼を見ていた。 「ごめんなさい、ごめんなさい……」  

謝らなくていいんだよ、と言いかけて、彼は言葉を呑み込んだ。妻は、彼を「夫」としてではなく、自分を叱る「何か」として恐れていたのだ。

その転倒を境に、妻は歩くことを止めてしまった。  

痛みへの恐怖からベッドに張り付き、ただ天井を見つめて過ごす時間。足の筋肉は驚くほどの速さで削げ落ち、細い枯れ木のようになった。  

おむつを替えるたび、彼は自分の手の震えを止めることができなかった。がんの転移が進んでいるのか、腹部には焼けつくような熱がある。妻の体を持ち上げるたび、自分の中の何かがプツリ、プツリと切れる音がした。

三月二日の夜。  

翌日に雛祭りを控えたその夜、彼は窓の外に降る冷たい雨を見つめていた。  

妻は隣のベッドで、掠れた声で誰かの名前を呼んでいる。それは彼の名前ではなく、とうの昔に亡くなった彼女の母親の名前だった。  

もはや、自分はこの人を守り切れない。  

自分が動けなくなれば、彼女は施設に送られ、知らない人たちに囲まれて、怯えながら死んでいく。それは彼女が最も嫌がっていたことだった。

「お母さん」  

彼は、痛みで歪む顔を無理やり整えて、妻の手を握った。骨と皮ばかりになったその手は、氷のように冷たかった。

「……ずっと、一緒だったね」  

妻の瞳に、一瞬だけ、かつての優しい光が宿ったような気がした。彼女は彼の顔をじっと見つめ、幼子のような頼りなげな笑みを浮かべた。

(ああ、この人を一瞬たりとも、一人の孤独な闇に放り出すことはできない)

そのとき、彼の心から、あらゆる迷いが消えた。  

それは決断というよりも、これ以上重い荷物を背負いきれなくなった人間が、そっと膝をつくような、静かな諦念だった。

「お母さん、もう頑張らなくていいよ。もう、十分だ」  彼の頬を、熱い涙が伝った。

「……一緒に行こうか」

妻は、その言葉の意味を理解したのかはわからない。ただ、彼の涙を不思議そうに見つめ、彼の手を力なく握り返した。  

彼は納戸へ向かい、長い間眠っていたバーベキュー用の練炭を取り出した。その手つきは、どこか、これから長い旅に出る準備をするように、穏やかで迷いがなかった。

第4章 春の雪、三月三日の決断

令和三年、三月三日。  

テレビのニュースが、各地で桃の節句を祝う穏やかな春の便りを伝えていた。しかし、隙間風の吹き込む古い平屋の寝室には、底冷えのするような静寂だけが横たわっていた。

午後八時過ぎ。彼は、夕食の温かいお茶に、密かに処方してもらっていた睡眠薬をすり潰して溶かした。

「お母さん、今日は少し冷えるから、これを飲んで早く休もうね」  

ベッドに横たわる妻は、何も疑うことなく、差し出された湯呑みに口をつけた。やがて薬が効き始めたのか、妻の規則正しい寝息が部屋に響き始めた。

彼は静かに立ち上がり、納戸から持ち出してきた七輪と練炭を部屋の中央に置いた。換気扇を止め、窓の隙間を目張りしていく。火をつけると、パチパチという小さな音とともに、赤い炎が暗い部屋を照らし出した。

(これでいい。これでようやく、二人で楽になれる)  

彼は妻のベッドの傍らに座り込み、その細く冷たい手を両手で包み込んだ。自身を蝕むがんの痛みも、終わりの見えない介護の重圧も、もうすぐすべて煙とともに消えてなくなるはずだった。

一酸化炭素が部屋に充満し始め、彼の意識も次第に薄れ、心地よい微睡みの中に沈んでいこうとしていた。  その時だった。

「う、ううっ……」

隣から聞こえた異音に、彼はハッと目を開けた。  

安らかに眠りにつくはずだった妻が、顔をひどく歪ませていた。練炭から立ち上る不完全燃焼の煙が喉を刺激したのか、妻は息苦しさに胸をかきむしるようにして、苦悶の声を漏らし始めたのだ。

「痛い……ぐるしい……」  

その声は、かつて転倒した時のように、あるいは認知症の混乱の中で怯えていた時のように、悲痛な響きを帯びていた。

彼はパニックに陥った。  違う。こんなはずじゃなかった。私は、お前を苦しみから解放してやりたかっただけなのに。これでは、私がただお前を苦しめているだけではないか。

「ごめん、ごめんな……」

震える手で妻の背中をさすっても、うめき声は止まらない。妻の顔は苦しさで紫色に変わり始めていた。このままでは、妻は凄絶な苦しみの中で息絶えることになる。

(楽にさせてあげよう。早く、早く楽にしてあげなければ)

極限の焦燥感と歪んだ愛情の中で、彼の視界の端に、あるものが飛び込んできた。  

それは、介護用ベッドの電動モーターを動かすために、コンセントから壁沿いに引かれていた黒い「延長コード」だった。  彼は這うようにしてそのコードを手に取ると、無我夢中で妻の首元へと回した。

「許してくれ……許してくれ!」

何十年も愛し続け、守り抜くと誓った細い首にコードを食い込ませながら、彼は泣き叫んだ。妻の体がビクンと跳ね、彼の腕に抵抗するような力が伝わったが、それもほんの数秒のことだった。やがて、妻の体から完全に力が抜け、部屋には再び、練炭が燃える微かな音だけが残された。

妻が動かなくなったことを確認すると、彼はコードから手を放し、妻の亡骸にすがりついて声を上げて泣いた。涙が枯れ果てた後、彼もまた、妻の隣で深い闇の中へと意識を手放していった。

――しかし、運命は彼に最期の逃避すら許さなかった。

翌、三月四日の午前九時過ぎ。  

彼は、ひんやりとした畳の上で目を覚ました。隙間風で部屋の空気が入れ替わってしまったのか、あるいは練炭の量が足りなかったのか。重い頭痛と吐き気に襲われながら身を起こした彼の目に飛び込んできたのは、首に生々しい索条痕を残し、すっかり冷たくなってしまった妻の姿だった。

自分だけが生き残り、最も愛する人をこの手で殺め、ただの「殺人犯」になり果てたという取り返しのつかない現実。  

彼はふらつく足で立ち上がり、黒電話の受話器を手に取った。震える指で『一一〇』のダイヤルを回す間も、彼の視線は、首にコードを巻きつけられたまま眠る妻から離れることはなかった。

第5章 法廷に響く「献身」の代償

令和四年、春。  

千葉地方裁判所の法廷は、重苦しい静寂に包まれていた。  証言台の前に立つ彼は、七十六歳になっていた。約一年に及ぶ長い勾留生活の間にすっかり白髪が増え、背中は以前にも増して小さく丸まっている。

「被告人の犯行は、極めて短絡的かつ身勝手と言わざるを得ません」

検察官の冷徹な声が、法廷に響き渡る。

「被害者の認知症は、確かに進行していました。しかし、全く意思疎通が取れない状態ではなく、ただちに命の危険があるわけでもありませんでした。長女という身内が近隣に住んでおり、デイサービスやショートステイなど、公的な支援をさらに頼る選択肢は十分にありました。それにもかかわらず、被告人は一人で悲観し、被害者の尊い命を奪ったのです」

その言葉は、鋭い刃となって彼の胸に突き刺さった。  

何も言い返せなかった。検察官の言う通りだ。私は「妻のため」などと正当化しながら、結局は自分の心と体の限界から逃げ出したかっただけなのだ。彼は静かに目を伏せ、ただ黙って断罪を受け入れた。

続いて、情状証人として長女が証言台に立った。  

彼女はマイクの前に立つなり、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

「……私の、私の責任なんです」

振り絞るような声だった。

「父は昔から、弱音を吐かない人でした。コロナ禍で私が様子を見に行った時も、『手すりもベッドもあるから大丈夫だ』って笑っていました。私はその言葉に甘えて……父がどれだけ夜中に起こされ、ひとりで汚物の片付けをして、がんに体を蝕まれながら絶望していたか、気づいてあげられなかった。父を殺人犯にしてしまったのは、何も見ようとしなかった私です!」  

法廷に、長女の泣き崩れる声が響いた。彼はたまらず顔を上げ、娘の背中を見つめた。手錠を外された手で顔を覆い、彼もまた、声を殺して泣いた。こんなに泣かせるつもりなど、微塵もなかったのに。

すべての審理が終わり、裁判長がゆっくりと口を開いた。 それは、あの低く落ち着いた声だった。

「主文。被告人を懲役三年に処する」

彼は深く頭を下げた。刑務所に入り、冷たいコンクリートの壁に囲まれて一人で死んでいく。それが、妻を殺めた自分にふさわしい罰だと思っていた。しかし、裁判長の言葉は続いた。

「未決勾留日数中、百日をその刑に算入する。そして――この裁判が確定した日から、五年間その刑の執行を猶予する」

彼は顔を上げた。執行猶予。それは、すぐには刑務所に行かなくてもよいという宣告だった。裁判長は、彼を真っ直ぐに見据えて理由を語り始めた。

「本件は、強い殺意に基づく計画的な犯行であり、結果は重大です。しかし、被告人が令和元年から長期間にわたり、文句一つ言わずに妻の透析に付き添い、献身的に介護を続けてきた事実は、この法廷の誰もが認めるものです」  

裁判長の語り口は、厳格でありながらも、どこか深く寄り添うような響きを持っていた。

「自身のすい臓がんの疑いという過酷な宣告を受け、さらに妻の転倒による急激な衰弱を目の当たりにし、『自分が倒れたら妻はどうなるのか』と将来を悲観し、絶望の淵に追い詰められてしまった事情には、強く同情すべき点があります。長女も、これからは自分が父を支えると固く約束しています。当裁判所は、被告人を直ちに刑務所に収容するのではなく、社会の中で、その罪の重さと向き合いながら更生させることが最も適切であると判断しました」

それは、法が彼に与えた最大限の「温情」であり、同時に、生きて罪を償い続けろという「十字架」でもあった。

「被告人」  

最後に、裁判長が彼に語りかけた。

「あなたのした事は決して許されることではありません。ですが、奥様はあなたが刑務所で悲惨な最期を遂げることを本当に望んでいるでしょうか。残された五年間を社会の中でしっかりと生き、奥様を弔い続けてください」

「……はい。申し訳、ありませんでした……」

彼は深く、深く頭を下げた。  

その目からこぼれ落ちた涙が、法廷の床にぽつりと、暗い染みを作った。

終章 終わらない罰、消えない感触

午前二時。  

反射的に、バッと目が覚めた。隣の部屋から、微かにシーツの擦れる音が聞こえた気がしたのだ。

「お母さん、トイレか」  

彼は布団を跳ね除けようとして、暗闇の中で動きを止めた。

音がしない。  

介護用ベッドのモーターが唸る音も、妻の寝息もない。そこにあるのは、耳鳴りがするほどの静寂と、自分の浅い呼吸音だけだった。

あの日、自ら一一〇番通報し、警察車両に乗せられてから判決が出るまでの約三百日。彼は、留置所と拘置所の冷たい壁の中にいた。  

皮肉なものだ、と彼は思う。  

あんなに望んでも手に入らなかった「朝までの眠り」を、彼は妻を殺したその日から手に入れてしまった。留置所の硬い布団の上で、彼は数年ぶりに一度も起こされることなく眠り、決まった時間に提供される食事を口にした。

(私は、なんて浅ましい人間なんだ)

独房の中で、彼は何度も自分を呪った。  

介護から解放され、体が休まれば休まるほど、心は反比例するように地獄へ落ちていった。妻が苦しみ、自分が絶望していたあの日々の方が、この清潔で静かな独房よりも、どれほど人間らしくいられただろうか。

アクリル板越しに面会に来た娘の姿も、彼を変えた。  

警察に捕まった自分を責めるどころか、「お父さん、ごめんね」と泣き崩れる娘。その目は赤く腫れ、頬はこけ、殺人犯の家族として世間の目に晒されていることは明白だった。

「娘を介護から救いたかった」  

そんなものは、自分の独りよがりな嘘だった。自分が一線を越えたその瞬間に、娘の人生に「母を殺した父を支える」という、介護よりもはるかに重く、出口のない十字架を背負わせてしまったのだ。

裁判長は「執行猶予五年」と言った。  

だが、彼にとっての本当の刑期は、あの日、留置所の冷たい格子を掴んだ瞬間に始まっていた。

彼はゆっくりと立ち上がり、台所へ向かった。  

冷蔵庫を開けると、一番上の段に長女が作り置きしていったタッパーが積まれている。その一つ一つに、「お父さん、ちゃんと食べてね」という付箋が貼られていた。  

彼はその文字を指でなぞり、押し黙った。  

この付箋の数だけ、娘は自分の生活を削り、自分の幸せを後回しにしている。自分が生きていればいるほど、娘の人生は自分の「贖罪」のために浪費されていく。

電気ケトルのスイッチを入れ、お湯が沸くのを待つ。  

ふと、自分の右手を見た。  

拘置所で何度も、何度も洗った手だ。しかし、どれほど洗っても、あの日コードを握りしめた時の硬い感触と、妻の首が最後に見せた微かな温もりだけは、皮膚の奥深くにこびりついて離れない。

シューッ、という水音が、静かな家の中に響く。    

刑務所の壁の中にいた方が、どれほど楽だっただろう。  

あそこなら、自分はただの「番号」でいられた。だが、この家では、自分は「妻を殺し、娘の人生を壊した一人の男」として、朝が来れば目覚め、腹を空かせ、生き続けなければならない。

彼は湯呑みを一つだけ取り出し、ゆっくりとお茶を注いだ。  

立ち上る白い湯気の向こう、すりガラスの窓が、ほんの少しだけ白み始めている。

腹の奥底では、がんの影がまた一つ、鈍い痛みを走らせた。  

彼はその痛みを、自分に与えられた唯一の「対価」であるかのように噛み締めながら、ただ静かに、終わりの見えない空っぽの一日がまた始まるのを待っていた。

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